はじめに
前々回の記事『〈考察⑳〉日本陸海軍航空発動機全開高度の計算値と実測値の乖離について』では、日本陸海軍の航空機スーパーチャージャーの地上性能から求めた高空性能の補正式に問題があり、結果として全開高度が実態とかけ離れた高すぎる数値になっていた、という説を示しました。
今回の記事ではその関連として、高空馬力の計算式について当時どのような式が用いられていたのかを紹介し、続いてその式が果たして妥当なものであったのかどうかについて考えてみたいと思います。
ブースト一定時の馬力について
一般的に、遠心式過給機を備えた航空発動機の馬力は、ブースト圧力が一定である場合、地上から規定の全開高度まで緩やかに右肩上がりとなり、全開高度以上ではブースト圧が維持できないため急激に減少していきます。
下に示したのは栄12型の馬力曲線です(零戦の取説より)。左が地上性能を、右が高度性能を表していますが、それぞれの回転数において高度0mから全開高度にかけて馬力が増えていっていることが見て取れるかと思います。
ところで、なぜブースト圧が一定にも関わらず高度が上がるにつれて馬力も増えるのでしょうか。これには、背圧の低下と大気温度の低下の二つの要素が影響しています。ですので、地上馬力から高空馬力を推定するには、①背圧の影響と②温度の影響とを正しく計算してあげなければなりません。
当時使われていた計算式
それでは当時、いったいどのような計算式が使われていたのでしょうか。前回の考察記事の参考文献にも挙げた、渡部一郎『航空ピストン発動機の高空性能』という論文では様々な式が紹介されています。結論から言えば、「イギリスの式」として紹介されている計算式が、少なくとも1930年代の間は日本で用いられていたものと私は考えています。
すなわち、背圧に関しては35mmHg低下するごとに馬力が1%上昇し、温度に関しては吸入絶対温度の平方根に逆比例するという実験式を採用していたようなのです。
※圧力比の補正はブースト圧一定の場合は加味する必要なし。
『発動機馬力曲線作製法』(横須賀海軍航空隊、昭和13年5月)という資料があります。この資料は先ほど示した栄12型の図のような馬力曲線の作成法をまとめたものですが、この資料を見ると下の画像たちのように「イギリスの式」が使われていたことが分かるのです。(圧力比の補正式は前回の記事でも紹介しましたね。)
さて、先ほど私はこの式は少なくとも1930年代の間は使われていた、と述べました。その根拠についても説明します。
以下の表は、海軍の発動機(一部例外あり)を試験日順に並べ、海軍の要目表に載っている地上馬力と高度馬力、そして「イギリスの式」を使って地上馬力から計算した高度馬力を並べたものです。そして、馬力は通常四捨五入してキリの良い数字で表されますから、計算した馬力を四捨五入して公式の高度馬力と一致すれば「〇」を、一致しなければ「×」を、あと少しで一致するものは「△」をつけています。(表はいつものように別タブでご覧ください。)
結果を見ていただくと、1934年(昭和9年)から1939年(昭和14年)までは例外なく「〇」になっています。しかしながら、40年代に入ると徐々に一致しなくなってきます。すなわち、次第に何か別の式に取って代わられたと思われます。
ちなみに「光2型の計算高度馬力は730馬力だから、四捨五入しても740馬力にならないじゃないか」と思われる方もいるかもしれませんが、地上馬力も四捨五入されているはずなので、地上馬力を704馬力とすれば計算高度馬力は735馬力になり、これも「〇」に含めています。
また、「△」は上記のような四捨五入計算をして1馬力足りなかったものに対しついています。当時の計算精度から、1馬力程度の誤差は生じ得たと考えて「△」としています。
「イギリスの式」の妥当性
ここまで、高空馬力の計算は「イギリスの式」で行われ、次第に別の式に取って代わられたと思われることを説明してきました。では、どんな式がそのあと使われたのでしょうか。残念ながら、現時点ではその答えをつかむことはできていません。試しに、前回記事で紹介した永野論文の背圧修正式で計算してみたのですが、どうやら違うようです。
しかしながら、何らかの問題があってこの「イギリスの式」は使われなくなったのは間違いないでしょう。その問題とは何だったのでしょうか。
まず背圧の補正式に関してですが、どんな圧縮比でどんなブースト圧の発動機でも背圧が35mmHg減少する毎に1%馬力が上昇するというのはかなり乱暴な話であると言わざるを得ません。圧縮比も過給圧も小さく、馬力も500馬力程度の時代においてはこの計算式でも大きな誤差を生まなかったのかもしれませんが、1000馬力を超えるような発動機に対してはもはや不適でしょう。
また温度の補正式についても「吸入温度=大気温度」として計算しているようですが、これは無過給発動機の話であれば分かりますが、過給機付き発動機であれば過給機出口の温度で考えなければならないと考えます。また、メタノール噴射が標準装備となりつつあった大戦後期の発動機であればその影響も無視できないはずです。
結局のところ、この「イギリスの式」は小馬力発動機にのみ適用できる簡易的な式と見なさざるを得ないと思います。
かといって、田中・平尾式や粟野式のような今まで発表されてきた式のどれが正しいのか判断できるような知識は私にはありませんし、ましてや自身で理論的に導出できるはずもありません。
さしあたっては、戦後、JIS規格制定時に設定された渡部式を用いるのが一番妥当なのではないでしょうか。
ちなみに『航空ピストン発動機の高空性能』では上式の詳しい導出方法は省略されていますが、参考文献に挙げた英語の論文で詳しく論証されています。(ただし、論の大詰めで「1.5」という係数がどこからともなく現れるなどちょっと怪しいところもあります。)
「イギリスの式」と渡部式の比較
最後に、それぞれ「イギリスの式」と渡部式で計算した場合、どの程度の差が出るのかを試しに確認してみてこの記事の終わりとしたいと思います。
栄12型の性能は、はじめに馬力曲線で示したように、公称運転(+150mmHg、2500rpm)時に地上830PS、4200mで950PSとされています。
全開高度は4200mのまま変わらないと仮定し、吸入温度=大気温度として渡部式を計算すると、なんと栄12型の高度馬力は949PSと「イギリスの式」と一致しました。
しかしながら、上述のように吸入温度は過給機出口温度で考えるべきだと思いますので、粟野による推定式を用いて(ただし過給機圧力比補正式はイギリス式、η0ad=0.65として仮定)計算してみると、地上での吸入温度が367K(79℃)、全開高度での吸入温度が340K(52℃)となり、それを元に再計算すると、高度馬力は938PSと約10馬力少ない結果となりました。※ただし前回記事で紹介したようにR0=Rzとすれば、949PSのままとなります。
まとめ
というわけで、今回の記事では日本軍航空発動機の高空馬力推定がどのような計算で行われていたか、そしてその式の妥当性について考えてみました。
当初は「イギリスの式」使われ、40年代に入ると次第に他の方法に変わっていったものと推測されますが、他の方法というのがどのような式だったのかは今のところ分かりません。十分な高空試験設備や、飛行しながら測定できるトルクメーターは当時の日本では整備途上にあったかと思いますので、実測値というわけではないと思います。
「イギリスの式」に変わる妥当な式にはどんなものがあるか、と問われれば、戦後に設定された渡部式になるかと思います。ただしこの式は、渡部氏の言うように従来の結果と合うように係数を調整した準理論式といえるものなので、どこまで信用してよいかは正直疑問が残るところではあります。
もし何かこのあたりの事情にお詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄で教えていただけたらと思います。
今回もお読みいただきありがとうございました。<(_ _)>
前々回の記事『〈考察⑳〉日本陸海軍航空発動機全開高度の計算値と実測値の乖離について』では、日本陸海軍の航空機スーパーチャージャーの地上性能から求めた高空性能の補正式に問題があり、結果として全開高度が実態とかけ離れた高すぎる数値になっていた、という説を示しました。
今回の記事ではその関連として、高空馬力の計算式について当時どのような式が用いられていたのかを紹介し、続いてその式が果たして妥当なものであったのかどうかについて考えてみたいと思います。
ブースト一定時の馬力について
一般的に、遠心式過給機を備えた航空発動機の馬力は、ブースト圧力が一定である場合、地上から規定の全開高度まで緩やかに右肩上がりとなり、全開高度以上ではブースト圧が維持できないため急激に減少していきます。
下に示したのは栄12型の馬力曲線です(零戦の取説より)。左が地上性能を、右が高度性能を表していますが、それぞれの回転数において高度0mから全開高度にかけて馬力が増えていっていることが見て取れるかと思います。
ところで、なぜブースト圧が一定にも関わらず高度が上がるにつれて馬力も増えるのでしょうか。これには、背圧の低下と大気温度の低下の二つの要素が影響しています。ですので、地上馬力から高空馬力を推定するには、①背圧の影響と②温度の影響とを正しく計算してあげなければなりません。
当時使われていた計算式
それでは当時、いったいどのような計算式が使われていたのでしょうか。前回の考察記事の参考文献にも挙げた、渡部一郎『航空ピストン発動機の高空性能』という論文では様々な式が紹介されています。結論から言えば、「イギリスの式」として紹介されている計算式が、少なくとも1930年代の間は日本で用いられていたものと私は考えています。
すなわち、背圧に関しては35mmHg低下するごとに馬力が1%上昇し、温度に関しては吸入絶対温度の平方根に逆比例するという実験式を採用していたようなのです。
※圧力比の補正はブースト圧一定の場合は加味する必要なし。
『発動機馬力曲線作製法』(横須賀海軍航空隊、昭和13年5月)という資料があります。この資料は先ほど示した栄12型の図のような馬力曲線の作成法をまとめたものですが、この資料を見ると下の画像たちのように「イギリスの式」が使われていたことが分かるのです。(圧力比の補正式は前回の記事でも紹介しましたね。)
さて、先ほど私はこの式は少なくとも1930年代の間は使われていた、と述べました。その根拠についても説明します。
以下の表は、海軍の発動機(一部例外あり)を試験日順に並べ、海軍の要目表に載っている地上馬力と高度馬力、そして「イギリスの式」を使って地上馬力から計算した高度馬力を並べたものです。そして、馬力は通常四捨五入してキリの良い数字で表されますから、計算した馬力を四捨五入して公式の高度馬力と一致すれば「〇」を、一致しなければ「×」を、あと少しで一致するものは「△」をつけています。(表はいつものように別タブでご覧ください。)
結果を見ていただくと、1934年(昭和9年)から1939年(昭和14年)までは例外なく「〇」になっています。しかしながら、40年代に入ると徐々に一致しなくなってきます。すなわち、次第に何か別の式に取って代わられたと思われます。
ちなみに「光2型の計算高度馬力は730馬力だから、四捨五入しても740馬力にならないじゃないか」と思われる方もいるかもしれませんが、地上馬力も四捨五入されているはずなので、地上馬力を704馬力とすれば計算高度馬力は735馬力になり、これも「〇」に含めています。
また、「△」は上記のような四捨五入計算をして1馬力足りなかったものに対しついています。当時の計算精度から、1馬力程度の誤差は生じ得たと考えて「△」としています。
「イギリスの式」の妥当性
ここまで、高空馬力の計算は「イギリスの式」で行われ、次第に別の式に取って代わられたと思われることを説明してきました。では、どんな式がそのあと使われたのでしょうか。残念ながら、現時点ではその答えをつかむことはできていません。試しに、前回記事で紹介した永野論文の背圧修正式で計算してみたのですが、どうやら違うようです。
しかしながら、何らかの問題があってこの「イギリスの式」は使われなくなったのは間違いないでしょう。その問題とは何だったのでしょうか。
まず背圧の補正式に関してですが、どんな圧縮比でどんなブースト圧の発動機でも背圧が35mmHg減少する毎に1%馬力が上昇するというのはかなり乱暴な話であると言わざるを得ません。圧縮比も過給圧も小さく、馬力も500馬力程度の時代においてはこの計算式でも大きな誤差を生まなかったのかもしれませんが、1000馬力を超えるような発動機に対してはもはや不適でしょう。
また温度の補正式についても「吸入温度=大気温度」として計算しているようですが、これは無過給発動機の話であれば分かりますが、過給機付き発動機であれば過給機出口の温度で考えなければならないと考えます。また、メタノール噴射が標準装備となりつつあった大戦後期の発動機であればその影響も無視できないはずです。
結局のところ、この「イギリスの式」は小馬力発動機にのみ適用できる簡易的な式と見なさざるを得ないと思います。
かといって、田中・平尾式や粟野式のような今まで発表されてきた式のどれが正しいのか判断できるような知識は私にはありませんし、ましてや自身で理論的に導出できるはずもありません。
さしあたっては、戦後、JIS規格制定時に設定された渡部式を用いるのが一番妥当なのではないでしょうか。
ちなみに『航空ピストン発動機の高空性能』では上式の詳しい導出方法は省略されていますが、参考文献に挙げた英語の論文で詳しく論証されています。(ただし、論の大詰めで「1.5」という係数がどこからともなく現れるなどちょっと怪しいところもあります。)
「イギリスの式」と渡部式の比較
最後に、それぞれ「イギリスの式」と渡部式で計算した場合、どの程度の差が出るのかを試しに確認してみてこの記事の終わりとしたいと思います。
栄12型の性能は、はじめに馬力曲線で示したように、公称運転(+150mmHg、2500rpm)時に地上830PS、4200mで950PSとされています。
全開高度は4200mのまま変わらないと仮定し、吸入温度=大気温度として渡部式を計算すると、なんと栄12型の高度馬力は949PSと「イギリスの式」と一致しました。
しかしながら、上述のように吸入温度は過給機出口温度で考えるべきだと思いますので、粟野による推定式を用いて(ただし過給機圧力比補正式はイギリス式、η0ad=0.65として仮定)計算してみると、地上での吸入温度が367K(79℃)、全開高度での吸入温度が340K(52℃)となり、それを元に再計算すると、高度馬力は938PSと約10馬力少ない結果となりました。※ただし前回記事で紹介したようにR0=Rzとすれば、949PSのままとなります。
まとめ
というわけで、今回の記事では日本軍航空発動機の高空馬力推定がどのような計算で行われていたか、そしてその式の妥当性について考えてみました。
当初は「イギリスの式」使われ、40年代に入ると次第に他の方法に変わっていったものと推測されますが、他の方法というのがどのような式だったのかは今のところ分かりません。十分な高空試験設備や、飛行しながら測定できるトルクメーターは当時の日本では整備途上にあったかと思いますので、実測値というわけではないと思います。
「イギリスの式」に変わる妥当な式にはどんなものがあるか、と問われれば、戦後に設定された渡部式になるかと思います。ただしこの式は、渡部氏の言うように従来の結果と合うように係数を調整した準理論式といえるものなので、どこまで信用してよいかは正直疑問が残るところではあります。
もし何かこのあたりの事情にお詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄で教えていただけたらと思います。
今回もお読みいただきありがとうございました。<(_ _)>
参考文献
粟野誠一『航空発動機の性能推定法』航空研究所報告(1944)
永野治『航空発動機の性能解析と高空性能推算法』日本航空学会誌(1939)
渡部一郎『航空ピストン発動機の高空性能』日本航空学会誌(1954)
渡部一郎、渡辺剛男、安藤亨 "Derivation of Formula for the Altitude Performance Characteristics of Aviation Piston Engine fitted with Mechanically driven Supercharger"(1955)
渡部一郎、渡辺剛男、安藤亨 "Derivation of Formula for the Altitude Performance Characteristics of Aviation Piston Engine fitted with Mechanically driven Supercharger"(1955)






