WW2航空機の性能:WarbirdPerformanceBlog

第二次大戦中の日本軍航空機を中心に、その性能を探ります。

2020年02月

※記事内の情報は2020/2/22時点のものです。訪れる際は最新の情報をご確認ください。

 今月上旬に、開室したばかりの大江時計台航空史料室に行ってきました。今回はそのレポートをしようと思います。
DSC_0003
はじめに
 まず、この「大江時計台航空史料室」とは何ぞや?という話ですが、これは三菱重工の私設航空博物館とでも言いましょうか。目玉は零戦と秋水です。名古屋市港区の三菱重工大江工場の敷地の一角にあります。もともと名古屋空港に隣接した三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所内に史料室があったのですが、それが移転して2020年2月からのオープンとなりました。私は名古屋に日帰りで行ける範囲に住んでいるので、早速行ってみることにしました。

どうやったら訪問できる?
 ちなみに、この史料室は完全予約制ですから、ふらっと行って入ることはできません。そのかわり(?)無料です。申し込みは予約フォームから行うようになっています。開室日は月、水、金。見学枠は①9:00~11:00、②11:00~13:00、③13:00~15:00、④15:00~17:00の四つに分かれており、予約時に複数の枠に希望を出すことが出来ます。予約できるのは予約日の1か月~3日前までの期間です。無事予約が確定したらメールが届きます。詳細は以下URLより
https://www.mhi.com/jp/expertise/museum/nagoya/
 この史料館の立地はぶっちゃけ微妙です。一番楽なのは名鉄神宮前駅か地下鉄伝馬町駅から市バスに乗る方法です。(※本数は減るが金山駅からも行けます。)一応最寄り駅は名鉄東名古屋港駅なのですが、朝夕しか電車が走っていないので朝一の枠を予約しているのでない限り使えません。歩くのが好きな方は名鉄大江駅から歩いても良いでしょう。ちなみに私は大江駅から歩きました!

到着したら?
 時計台についたら中に入り、受付を済ませましょう。予約確定のメールを印刷するか、スマホの画面を見せましょう。合わせて身分証明書も提示します。後は時間になるまでホールで待ちます。ホール内なら写真OKなのですが、正直なところ撮るものはありません。あと、荷物をロッカーに仕舞うのも忘れずに。
 時間になったら簡単なガイダンスが始まります。注意事項の説明があって、ひとりひとりにタブレットが渡されます。このタブレットは言ってみればパンフレットの代わりのようなもので、館内の展示の紹介等を見ることができます。一方で、展示室内にはこのタブレット以外は一切ものを持ち込むことはできません。写真撮影はもちろんのこと、メモをとるのも禁止です。紙のパンフレットの配布もありません。とっても厳しいです。ぜーんぶロッカーの中に入れてから、さあ展示室の中へ!(好奇心も一緒にしまってしまわないように!)

いざ中へ
DSC_00011
 展示は階段を上がって2階からスタートします。まずは三菱の航空機とエンジン開発の歴史を学んでいきます。展示はパネルだけでなく当時の文書や飛行機模型を使用しています。例えば、零戦の飛行試験に関する報告や烈風の性能計算書等が置いてありましたよ。さすがに原本を手に取って見ることはできませんが、一部の史料はコピーされたものが閲覧できるようになっていますし、図面のコピー等も壁にかかっていたりします。
 実機の展示は1階にあるのですが、一部吹き抜けのようになっており、2階から零戦を眺めることもできます。
DSC_00022
 さて、1階に降りてきました。ここは史料というよりも実物の展示がメインとなります。降りてすぐはエンジンのエリアです。金星1型、火星22型の実物や各種発動機の説明書が展示されています。金星は内部構造が見えるように一部加工されていますし、火星は発動機架が付いている状態だったりして興味深く見ることができました。
 さらに進むと零戦と秋水の実機が展示です。やっぱり本物は迫力がありますね。ここにある零戦は52甲型で、ミクロネシア連邦のヤップ島で朽ちかけていたものを80年代に日本に持って来て復元したものです。一方で秋水は61年に横浜にある日本飛行機の工場を工事中に掘っていたら見つかったらしく、その後岐阜基地で保管されていたそうなのですが、三菱に譲渡され2001年に復元が完了したとのこと。両機とも当時の姿そのままという訳ではありませんが、やっぱり実機を見るのは楽しいです。
 これでとりあえず展示の紹介は終了です。

感想
 最後に今回の感想を。開室したばかりだけあって中は非常に綺麗でした。いち私企業である三菱重工がこういった史料室を整備して一般市民に開放するというのはなかなかできることではなく、非常に素晴らしいことだと思います。しかも無料!!自分ならお金払っても行きますよ。
 一方で僭越ながら「こうだったらもっといいのにな」という点も。まず写真撮影どころかメモも禁止なことについて。上述したようにパンフレットもないので内容は全て脳内に記憶する必要があります。展示内容は当然難しいので、結局一週間後にはほとんど何にも頭に残っていません。せっかく充実している説明も、何らかの形で見た人の中に残らないと意味がないような気がします。
 写真についても、著作権とか色々な権利の関係で難しいのは理解できます。でも零戦と一緒に記念写真を撮りたいのが人ってものでしょう。それもできないのは悲しい、、、せめて2階は撮影不可、1階は撮影可とかにできないでしょうか。展示室を出たときに「あれ、これで終わり?」って少し思ってしまいましたから。
 もちろんこれらは私の個人的な感想ですし、色々と異論反論があるのも承知しています。三菱重工だって一般庶民相手にこんなことしたって一銭の得にもならないわけですから。でもこの史料館がもっと素敵なものになればいいなと思い少し偉そうなことを言わせて頂きました。
 当たり前ですが、本史料室はとても貴重かつ意義のある場所です。この記事が皆さんがここを訪ねる切っ掛けになれば幸いです。名古屋に行く予定がある方は、少しここへ寄り道してみてはいかがでしょうか。飛行機マニアの方はセントレア→ここ→各務ヶ原→愛知航空ミュージアム・名古屋空港という黄金ルートを周るのもアリですね!!
 それと皆さん外出の際はコロナウイルスに充分お気をつけくださいね。それでは。

はじめに
イタリアの空軍博物館に行ってきました!!とっても面白かったです。
でも、イタリア機をはじめマイナー欧州機に関する日本語の資料ってあんまりないような気がします。
ないなら自分で調べればいいじゃないか!ということで、ますはマッキC.200「サエッタ」について調べてみました。「世界のマイナー機」としてシリーズ化できると良いな~と思っています。
本文の構成は、
 ①概要
 ②諸元
 ③解説
  1.開発経緯
  2.技術的特徴
  3.実戦
  4.バリエーション
  5.現存機
 ④まとめ
となっています。
それでは、その時撮影した実機の写真と共にどうぞ!!

MC.200「サエッタ」
c.200
①概要
 アエルマッキC.200はマリオ・カストルディ技師の設計による単葉単発単座引込脚の戦闘機で、CR.42やG.50などと並んで大戦初期のイタリア空軍の主力機のひとつ。北はロシアから南はアフリカまで各地の戦線を支え、エンジンをDB601Aaに換装した後継機C.202の登場以降は主として地上攻撃や訓練に使用されました。愛称はサエッタで、イタリア語で「雷」や「矢」を意味します。C.200の「C」は設計者カストルディ技師の頭文字から来ており、マッキ社の「M」をとってMC.200と表記されることもあります。

②諸元
〈C.200 serie1〉
 全長 8.196m(水平)
 全高 3.510m(水平)
 全幅 10.580m
 翼面積 16.8m^2

 空虚重量 1898kg
 全備重量 2328kg

 発動機 フィアット A.74 R.C.38
     離陸出力 870PS / 2520RPM / 890mmHG
     定格出力 840PS / 2400RPM / 790mmHG @ 3,800m

 最高速度 503km/h @ 4,500m
 上昇時間 1,000m まで 1'03"
      2,000m まで 2'10
      3,000m まで 3'24"
      4,000m まで 4'35"
      5,000m まで 5'52"
      6,000m まで 7'33"
 上昇限度 絶対 9,100m
      実用 8,900m
 航続距離 570km (870km 増槽あり)
側面図

③解説
1.開発経緯
 シュナイダートロフィーで水上機の一時代を築いたアエルマッキ社のマリオ・カストルディ技師は、1935年春に新たな単発戦闘機の開発を開始しました。搭載予定エンジンこそ後の実機と違いましたが、このプロジェクトはC.200と名付けられました。
 一方、スペイン内戦の戦訓から、より高速で近代的な迎撃機の必要性を感じたイタリア空軍は、1936年2月10日に以下のような公式要求を出しました。
  ・最高速度500km/h
  ・上昇時間6000mまで5分
  ・航続時間2時間
  ・武装は12.7mm機関銃を1門または2門
  ・単葉低翼形式
  ・引込脚
  ・フィアットA.74エンジンを搭載
 これに応じたのはフィアット社のG.50、IMAM社のRo.51、そしてマッキ社のC.200でした。既に暖めていた計画をこの要求仕様に落とし込んだC.200試作1号機の初飛行は1937年12月24日のクリスマスイブに行われ、操縦はマッキ社の主任テストパイロットであるジュセッペ・ブレイが務めました。ライバル2機よりも一足遅れての初飛行で、なんとG.50の量産は既に決まっていましたが、C.200は試験飛行でその優れた素質を見せ、3機間の比較審査の結果C.200が最優秀機に選ばれます。さらに遅れて登場したレジアーネ社のRe.2000やカプローニ社のF.5、ウンブラ社のAUT.18との競争も勝ち抜き、最終的にC.200とG.50の二機種が量産を命じられました。「サエッタ(雷・矢)」と名付けられたC.200はマッキ社だけでなく、ブレダ社やSAIアンブロシーニ社でもライセンス生産が行われ、1939年から1942年にかけて合計約1,150機が量産されることになります。
 ところでC.200には重大な欠陥がありました。急激な旋回をすると片翼が失速し、フラットスピンに陥ってしまうというものです。これは当時の世界中の単葉機が直面していた問題でもありました。審査の時点で既にその欠陥は指摘されていましたが、部隊配備後2度の墜落事故で本機の運用は中止され、一時は生産の停止さえ取沙汰されました。カストルディ技師は原因と対策の研究に取り組みましたが、最終的にこの問題の解決に成功したのはSAIアンブロシーニ社のセルジオ・ステファヌッティ技師でした。C.200は速度性能を上げるためMC.72譲りの鋭い主翼前縁を持っていましたが、前縁半径の小さい主翼は大迎角時に気流が剥離しやすくなってしまいます。ステファヌッティ技師はテストパイロットのアドリアーノ・マンテッリと共に主翼前縁に薄い木板を接着し、その層を徐々に増やしていきながら最適な形状を追求したのです。こうして修正された主翼は1940年夏から製作が始まっています。

2.技術的特徴
 C.200はセミモノコック構造の全金属製単葉低翼引込脚の近代的なレシプロ戦闘機で、日本で言えば零戦や隼と同世代になるでしょうか。C.200は800馬力クラスの比較的非力なエンジンながら優れた空力設計で最高速度は500km/hに達し、加えてイタリア機伝統の優れた機動性と頑丈な構造も持ち合わせていました。テスト中に800km/h近い速度の急降下にも耐えたとされています。
rightside
左側面から。周りが結構ごちゃごちゃしていて、見られる範囲が限られてしまっている。

leftside
そして右側面。尾部は頑張ってもほとんど見えない。

〈胴体〉
 C.200の大きな特徴と言えば、猫背のように盛り上がった操縦席でしょう。これは良好な視界を求めるパイロットからの要望によるものでした。また、試作機や初期の量産機では零戦のように密閉式風防だったものが後に開放式になりましたが、これもパイロットが希望したことでした。時代に逆行しているように思えますが、これは彼らが当時の低品質のガラスに視界を遮られながら信頼性の低い計器や無線機に頼るよりかは風を肌で感じる方を好んだ結果でした。日本でも96式艦上戦闘機の時代に同様なことが起きています。
kishu
展示機の風防も開放式。機首には12.7mm機銃の銃身が飛び出している。

〈主翼〉
 平面形は後縁の方が前縁よりもきついテーパー翼で、翼端は円く整えられています。翼断面は前述のとおり前縁半径がかなり小さくなっており、高G旋回中の不意自転の原因となりました。翼面積は16.8m^2と決して大きくはなく、翼面荷重も140程度となっています。マッキ社戦闘機の主要な特徴に、主翼の長さが左右で異なることが挙げられます。プロペラの回転によって発生するトルクを打ち消すために右翼は左翼よりも20cm長くなっています。フラップはスプリット式で最大下げ角は45度でした。エルロンの表面は羽布で覆われています。
leadingedge
このようにサエッタの主翼前縁は非常に鋭い。

318 - コピー (2)
一方こちらはC.202の主翼。改良されて前縁半径が大きくなっていることが分かる。

〈尾部〉
 方向舵、昇降舵ともに可動面は羽布張りです。ちなみに、垂直尾翼に描かれたサヴォイア家の白十字の形状で製造会社が判別できるそうです。(本当かいな?)
〈降着装置〉
 主脚は内側に格納されます。尾輪は試作機では格納式でしたが、量産機では固定式になりました。国を問わずそういう例は多いです。
〈装備〉
 固定兵装は機種のプロペラ回転面内に装備された2門の12.7mmブレダSAFAT機関銃のみでした。装弾数は最初の12機は各310発、それ以降は各370発でした。この貧弱な武装は後継機C.202にも引き継がれることになります。また翼下に爆弾/増槽を搭載できるように改造された機体も存在します。防弾に関していえば、燃料タンクは12.7mm弾に耐えられるセルフ・シーリング式で、操縦席の装甲は途中から追加されました。
〈エンジン〉
 エンジンは空冷星形14気筒のフィアット社製A.74 RC.38が装備されました。それまでのイタリア航空機は速度世界最高記録を塗り替えたMC.72に搭載されたフィアットA.S.6エンジンのように液冷エンジンが主に使用されていましたが、構造がより簡単で、耐久性もある空冷エンジンにシフトしていこうという動きが当時ありました。イタリアの産業は一点もののレース用高性能液冷エンジンを製作する能力はありましたが、軍用エンジンを大量生産する力はありませんでした。A.74エンジンはC.200のほかにもCR.42やG.50にも搭載された名作エンジンで、馬力は低いもののその信頼性の高さは兵士たちに愛されました。しかしその後が続かず、以降のイタリア戦闘機エンジンはドイツのダイムラーベンツ製が主流となっていきます。
cowling
機首部分。胴体部分の滑らかさとの落差がすごい。

 A.74 RC.38エンジンはフィアット社がライセンス生産していたP&W R-1535「ツイン・ワスプ・ジュニア」を参考に発展させたエンジンで、離陸時に870馬力を発揮し、定格出力は高度3,800mで840馬力とされています。
 エンジン・カウリングは極限まで小さくするために、エンジンのロッカーアーム部分がはみ出してフェアリングで覆われており、ぼこぼこした形状になっています。オイルクーラーは機首に環状に配置されています。
exhaust
エンジン・カウリング下部をズーム。排気管は真下を向いている。

〈プロペラ〉
 プロペラは最初の24機はフィアット社製、それ以降はピアッジオ社製P.1001で、直径3.05mの金属製・三翅・定回転でした。

3.実戦
〈実戦配備〉
 王立空軍は1939年からC.200の量産機を受け取りはじめ、初めて配備される実戦部隊は、第4航空団となるはずでした。しかし部隊のパイロット達は軽快な複葉機CR.42を好み、その結果C.200の受領を拒否するという珍事が起きます。これらの機体は代わりに第1航空団が受け取り、最初のサエッタ部隊となったのです。
 1940年6月10日のイタリア参戦の時点で、C.200は第54航空団の第152、153航空群と第1航空団の独立第6航空群に配備されていましたが、数の上では複葉のCR.42、CR.32部隊が大多数を占めていました。さらに悪いことに、前述の不意自転問題等から実戦参加はさらに遅れ、対仏戦線にC.200が参加することはできませんでした。
 C.200の初陣は9月に訪れます。第6航空群による、マルタ島への攻撃に向かうJu-87「スツーカ」を護衛するという任務でした。C.200は続々と新たな部隊に配備されていき、41年にはバルカン半島にも投入され、英軍の「ハリケーン」と激しい戦いを繰り広げました。
〈北アフリカ戦線〉
 C.200が最も激しく戦ったのは、おそらく北アフリカ戦線でしょう。41年4月に最初の第374飛行隊が、続いて7月に第153、157航空群が進出し、一進一退の攻防を繰り広げる北アフリカの戦いに加わりました。損耗した部隊は12月に本土から来た部隊と交代し、最新鋭のC.202も戦線に加わりました。なお砂漠の環境に対応するため北アフリカのC.200にはキャブレターの空気取入口にサンド・フィルターが装備されており、C.200A.S.と呼ばれました。A.S.とは”Africa Settentrionale”すなわち「北部アフリカ」を意味します。
 C.202の参戦以降、C.200の任務に地上や艦船への攻撃も加わりました。C.202が制空を行い、C.200は機銃掃射や翼下に搭載した爆弾を使った爆撃を行いました。42年9月にはトブルク要塞に対する連合軍の海からの強襲(「アグリーメント作戦」)を阻止するべく爆装したC.200が出撃、英軍駆逐艦ズールーの撃沈に貢献します。
 しかしながら、エル・アラメインの戦い以降北アフリカの戦況は枢軸軍の不利に傾き、43年1月ついに北アフリカからの撤退が始まり、2月時点で残されたC.200はチュニジアのエル・ハンマの第13、18航空群、チュニスの第384飛行隊の計25機だけとなりました。5月に入ると連合国軍はチュニスへの突入に成功。現地の枢軸軍は降伏し、北アフリカ戦線はここに終結しました。
〈ロシア戦線〉
 ドイツがソ連に突如侵攻したのは1941年6月22日のことでした。イタリアもそれに加わって7月10日C.S.I.R(Corpo di Spedizione in Russia、「ロシア遠征軍団」)が発足。8月12日、第22航空群の51機のC.200が最初の戦闘機部隊としてロシア戦線のトゥドラに到着しました。この部隊は護衛任務や地上攻撃等で枢軸軍の進撃を支え、42年5月に第21航空群と交代しました。厳しい寒さの中でC.200は果敢に戦い続けましたが、戦況の悪化を受けて43年はじめから帰国の途につきました。最終的にイタリア軍はロシア戦線で様々な理由で66機を失いましたが、引き換えに88機の撃墜を記録しています。
〈サエッタの終わり〉
 43年7月のシチリア侵攻時点で、C.200は性能はすっかり時代遅れとなっていましたが、まだ複数の部隊で運用されていました。9月3日連合軍はイタリア本土に侵攻を開始し、ムッソリーニ失脚後新政府の首班となっていたバドリオ元帥が連合軍との休戦協定を締結しました。しかし、これが戦争の終わりではありませんでした。イタリアは南北に分断され、南イタリアは連合国軍の一員として、北イタリアは枢軸国軍の一員として互いに戦いあうことになったのです。
 南イタリアのC.200は44年の夏からレヴェラーノの戦闘機訓練校で使用されることとなりましたが、スペアパーツ不足に苦しんだといいます。一部の機体は47年までレッチェの飛行学校で使用されたようです。一方で、休戦時北イタリアにあったC.200はドイツ軍に徴用されました。北イタリアに共和国空軍が設立された後も、C.200は南部の空軍と同様に主に練習機として使用されたようです。サエッタ同士で空戦が行われるという悲劇が起こらなかったことを祈ります。

youtubeにC.200の動画があったので貼ってみる。

4.バリエーション
〈C.200試作機〉
 計2機(M.M.336/M.M.337)が製作された。キャノピーは密閉式で、引込式の尾輪を備えていた点が量産機との違い。
〈C.200A.S.〉
 砂漠の砂塵対策として、キャブレターの空気取入口にサンド・フィルターを装備した機体。
〈C.200C.B.〉
 戦闘爆撃機型。翼下にそれぞれ50kg、100kg、160kgの3種類の爆弾を懸架することができた。
〈C.200bis〉
 エンジンをピアッジオP.XIX R.C.45エンジンに換装したもの。1942年4月11日初飛行。このエンジンは高度4,500mで1180馬力を発揮でき、それなりの性能向上が見込めたが、より優秀な性能を示したC.202の量産が既に始まっており、1機のみの生産に留まった。

5.現存機
 現在、良好な状態で残されている機体は2機存在します。そのうちの1機は本項で紹介したイタリア空軍博物館に展示されているブレダ社製の機体番号M.M.5311です。この機体は少なくとも43年の休戦時には工業学校のような所に教育目的で置かれていたようで、大きなダメージなく大戦を過ごしました。その後、修復を受けつつも様々な場所を転々とし、最終的に空軍博物館で羽を休めることになりました。
 もう1機はアメリカの空軍博物館にある機体です。こちらもブレダ社製で機体番号はM.M.8146です。この機体は部隊を転々としながら北アフリカ戦線を戦い、42年11月、リビアのベンガジで放棄されていたところを連合国軍に発見されました。この機体も戦後米国各地を転々とし、状態も非常に悪くなっていましたが、1989年マッキ社の協力のもとイタリア国内で修復が行われ、92年からデイトンの米空軍博物館で展示されています。
 また、イタリアのトレントにあるジャンニ・カプローニ航空博物館では、状態は良くありませんがC.200の胴体部分とエンジンが展示されています。

④まとめ
 C.200は800馬力級の空冷エンジンを装備しており、第2次大戦開戦時点で既に同時代の戦闘機と比べてパワー不足の感がありましたが、カストルディ技師の優れた空力設計のおかげで500km/h近い速度を発揮しました。相手が複葉機やI-16のような旧式機ならば十分有利に戦いを進めることができたと思われます。C.200のライバルはイギリスの「ハリケーン」でしょう。マルタ島、バルカン半島、北アフリカとあらゆる戦線で両機は顔を合わせました。両者の性能は似通っていますが、最高速度ではハリケーンに分があり、機動性ではサエッタが有利だったようです。C.200の貧弱な武装も、まだこれらの相手なら通用しました。ところが、敵のラインナップにスピットファイアMk.VやカーチスP-40が加わるようになると流石に苦戦を強いられるようになったようで、次第に対戦闘機戦はC.202に譲って戦闘爆撃機の任務に活路を見出し、最終的には練習機となって現役を退きました。
 格好良いというよりかは愛嬌があるという表現の似合うサエッタですが、本機の意義は後継機C.202やC.205の基礎となったことにも見出すことができます。本機の設計上の欠点や運用上の問題点を挙げればいくつも挙げることはできるでしょうが、その優秀な設計が優れた後継機を生んだこともまた事実でしょう。〈終わり〉
377 (2)


↑このページのトップヘ